いささか旧聞になるが、イランのアリ・ダエイが引退したと言う。
存在そのものが脅威となるストライカ。忌々しく幾度と決められたゴール。忘れ難い難敵であった。
97年11月16日、ジョホールバル。延長戦、猛攻を継続する日本に対し、イラン守備陣の必死の守備。どうしても崩せない焦りの中、突然右サイドのマハダビキアのドリブル、きれいなセンタリング。ここまで眠っていたかのように、全く、そう全く試合に参加していなかったアリ・ダエイが実に巧い動きで秋田の外側に走り抜ける。アリ・ダエイがボールを捉える。「うわわわわああああ〜〜〜〜〜。再来週はオーストラリアかよ。」と思ったら、僅かにシュートは枠を外れた。横にいた友人が後から笑っていたが、私はその瞬間本当に腰を抜かしていたのだそうだ。
もうあれから9年近い時が経った訳だ。それにしても思う。あのダエイの「うわわわわああああ〜〜〜〜〜。」があったからこそ、あの岡野の腰の引けたインサイドキックの感動は、一層高まったのではないかと。
92年のアジアカップ、イランのストライカのファルシャド・ピュスには驚かされた。1次リーグ初戦の北朝鮮戦、欧州の一流ストライカを思わせる知的な得点。そして1次リーグ最終戦の日本−イラン、終了間際にカズの得点でリードされ無理攻めに出たイランの裏を突いた日本の逆襲速攻、裏に抜け出た中山をイランの名DFモハメド・ハニが倒し一発退場。アル・シャリフ主審を囲むイラン選手たち。その混乱の中、ピュスまで退場になった。後日、ピュスら複数の選手が1年間出場停止になったと報道された。
何と、翌93年のワールドカップ予選にピュスが出場できなくなったのだ。何となく、あくまでも何となくであったが、あのドーハ最終予選を前に「ピュスのような中心選手を欠いたイランには確実に勝てるのではないか」と言う楽観論があったのも確かだった。だって、アリ・ダエイなんてストライカがいるなんて知らなかったのだもの。
あのドーハの第2戦。三浦ヤスが前に出てくる裏を狙う右サイドバックのザリンチェ。そこに井原を引き出しておいて、大きなクロスで柱谷と堀池の中間に飛び出してくるアリ・ダエイ。何と言う忌々しい攻撃だったのだ。そして終了間際、逆襲から抜け出したアリ・ダエイの落ち着き払った2点目のふてぶてしい落ち着き振り!
05年のテヘラン。テヘランでのイラン戦を観戦するのは長年の夢だった。今なおレギュラとして健在のアリ・ダエイは35歳になっていた。中澤とアリ・ダエイの対決が最大の焦点となると思われた試合だったが、前半早々にアリ・ダエイは負傷退場。1−2で敗れた翌日、現地の英語ができる複数のイラン人と会話したところによると、「アリ・ダエイの負傷により、逆に本来のベスト布陣が組めた」と言う発言が多かったのには少々驚いた。確かによい年齢になったストライカの首に鈴をつけるのは難しいのか。
イランも日本も本大会出場権を獲得し消化試合となった横浜国際でのイラン戦。2−0と日本がリードした終盤、アリ・ダエイは実に見事な入れ代わりから中澤を出し抜きPKを奪取した。衰えたと言えどもアリ・ダエイ。他の選手がやられたのならば、相当悔しかったかもしれないが、よりによって充実しまくっている中澤がやられたのだから、別種の満足感もあった。「やはりアリ・ダエイは凄いのだ」と。
正直言って、昨年のワールドカップ、アリ・ダエイが主将としてスタメン出場した事が、イラン代表にとって本当によかったのかどうかは、微妙なものがあったと思う。
でも、それはそれ。
全盛期の井原が率いた守備ラインも、中澤が君臨した守備ラインも、それぞれアリ・ダエイにやられた。本当に凄いストライカだったのだなと。幾多も見せてくれた忌々しいプレイに乾杯。
2007年06月07日
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あれが通っていたら延長の前に勝負が決まっていたかと思うと、ワールドカップ初出場への勝敗の行方を左右する、自分にとっては忘れられないシーンです。
難敵、強敵、天敵、そして好敵手。
彼もまた、日本のサッカー史を語る上では欠かせない人物かもしれませんね。
ダエイネタに反応してしまいました。武藤さんも御存知かもですが、そのダエイやアジジ等を操った当時のイラン代表のビエイラ(パドゥ)監督が、我が『ツエ−ゲン金沢』が所属する、北信越リーグのAC長野パルセイロにいて、ダエイの電撃移籍がありはしないかと、ビビッテます。(笑)
過日の読売新聞にもインタビュー記事が出てて、アジジの車椅子事件(懐かしい〜)の真相?やユニークな彼の様子が垣間見られて、敵将ながら微笑ましくなっています。いつか『講釈師』さまに、ツエの講釈をしてもらえるような状況になることを祈りつつ・・・。