2006年12月31日

2006年10大ニュース

 2006年も色々とお付き合いありがとうございました。年末ですので、恒例の10大ニュースを述べさせていただきます。何とも言えない残念なワールドカップでした。でも、これが日本サッカー界にとっての経験なのでしょう。



1.川淵会長嘘の上塗り...ミ!ジ!メ!



 日本サッカーの長い歴史の中で、ワールドカップの1次リーグ敗退そのものは必ずしも大事件ではないし、代表監督の選考を過つのもそれほどの問題ではない。ジーコ氏の選考そのものは間違いだったが、だからと言ってあの感動的なアジアカップの再三の逆転劇や、コンフェデでブラジルに対し攻撃的サッカーで対抗し後一歩まで追い詰めた実績もあったのだ。ところが、ジーコ氏のワールドカップでの失態を見て慌てたのかもしれないが、ジーコ氏選考の過ちを覆い隠すための論理破綻の発言を繰り返す川淵会長。会長の論理破綻は当然ながら、田島氏以下の日本協会の小人物達に伝播している。

 さらに悪い事に、川淵会長は、そうやって嘘を塗り固めているうちに、外部から何を批判されているのか、顧客であるJリーグのサポータ達が自らのどのような言動に苛立っているのか、すら理解できなくなってしまっている。

 川淵会長の居座り以降僅か数ヶ月が経過しただけだが、アントラーズ内田のアジアユース出場問題や、反町氏の五輪代表監督進退問題など、状況によっては協会会長の判断が必要になるような事態が出来した。しかし、どこの誰が、このような見苦しい居座りをした男の判断を信用するだろうか。

 事態は極めて深刻なのだ。



2.自らが不適任者であった事を示すジーコ発言



 上記したが、ワールドカップに敗れた事そのものは仕方がない事だ。しかし、公式戦を戦うまで、豪州の選手に比べて自分が選んだ選手の肉体能力が劣る事に気がつかないのでは、代表監督としての能力がなかったとしか言いようがないではないか。

 以前も述べたけど、「ここまで無能だったとは」と言う言葉につきるのだろうか。

 もちろん、代表監督としてのジーコが日本に何も残さなかった訳ではない。上記したアジアカップやコンフェデ。マスカットオマーン戦やマナマバーレーン戦で、技術的に圧倒的優位にある日本が守備的に戦う事で、勝利の確率を極端に高めるやり方も、日本にとっては目新しかった。

 決して、何もできない男ではなかったのだ。ああ、でもしかし。

 やはり、アントラーズの実質監督時代と異なり、やる気がなかったのだろう。



3.次々に登場する若年層のファンタジスタ



 一昨日にも述べたのだが、本田、水野、梅崎、柏木、柿谷次々と現れる技巧派の若手が次々と登場。確かに、世界に近づけば近づくほど、アルゼンチンやブラジルとの差を痛感するよ、でも協会会長がどんなにバカでも、これだけのタレントが次々に登場するのだから、我々の若年層育成システムは素晴らしいのだ。

 それなのに、福島に学校を作ってしまう事はさておき。



4.牛木氏の連載が終わる



 サッカーマガジン(もう愛読書ではないけれど)が、ビジネスの都合で牛木氏の連載をお止めになるのは仕方がない事だと思う。彼らは彼らで商売があるのだから。

 しかし、今回のサッカーマガジン編集部の判断により、我々は数十年間享受できていた日本サッカー界に対する定期的な定点観測のコラムを失った。日本サッカー界は、迷った時に戻る場所を失ったのだ。

 



5.オシム氏代表監督就任



 ジーコ氏の失敗と川淵会長の失態に関連すると言えば関連するが、やはりこの東欧の巨人が我が代表の指揮を執る事を素直に喜びたい。就任僅かに4ヶ月の札幌サウジ戦で、早くもその手腕の片鱗を味わう事ができたのだし。



6.祖母井秀隆氏、欧州への挑戦



 しかし、オシム氏の代表監督選考プロセスは論外だった。「川淵さんとは仕事をしたくない」との名セリフを残し、祖母外氏は日本協会への協力を拒絶。さらに10年もの契約(これはこれで信じ難い長期契約だったのだが)を完了し、ジェフを去る事になった。

 ナビスコの2連覇は、十分な実績と言っても構わないだろう。

 これだけの実績を残した男である。当然ながら、国内の金満クラブへ移るのかと思ったが、驚いた事に欧州はグルノーブルへの移籍。もちろん、日系のスポンサ絡みである事は間違いないが、考えてみれば「日本人の選手以外のタレント」の欧州進出は、初めてではないのか。

 



7.破綻する日程、放置する日本協会



 ここ数年続くアジアチャンピオンズリーグでの早期敗退。オシム氏就任以降の日本代表の日程は最早「消化する事」のみが目的かのようだった。遠藤が病魔に襲われたのも異様な日程故のものとしか言い様がない。

 最早、日本のトップリーグの日程は破綻しているのだ。その破綻を放置し続けている日本協会の罪は重い。今こそ、勇気を持った英断「J1を16チームにする事」を行うべきだと思う。



8.ヴァンフォーレの1部残留



 予算が十分で無いクラブがJ1に昇格するのは難しい。しかし、J1を維持するのはもっと難しい。



9.横浜FCの1部昇格



 とは言え、予算が十分で無いクラブがJ1に昇格するのはやはり難しい。



10.ワールドカップだけダメだった中村俊輔



 あのコンフェデ以降の1年半、中村が調子を崩したのはあの1ヶ月だけだったのだな。はー。それ以外の素晴らしさへの喜びを味わえば味わうほど、あのドイツでもがいていた中村を思い出す。はー。



 レッズのリーグ優勝さらなるビッグクラブへの成長への期待については、もう1年待ってからの方がよいかなと思い敢えて外した。拡大トヨタカップでのバルセロナの芸術と苦杯の堪能。中田の離脱。平山騒動。五輪代表監督反町氏の迷走、など語りたい事は多いが選外とさせていただいた。

 この十数年、常に右肩上がりで来た日本サッカー界。たまには停滞する事があるのも仕方がないのだろう。でも、本質的には強力そのものの若手選手が登場しているのだから、問題は少ない。来年のアジアカップ、中村と松井と憲剛と本田と水野を自在に使い切り、カップを照れながら抱えるオシム爺さんが堪能できるはず。
posted by 武藤文雄 at 23:21| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月29日

忘れたいが、忘れてはいけない過去2006

 ユース代表は初戦北朝鮮戦、下痢騒動などもあり心配されたが、内容、結果的にも完勝。およそ番狂わせの可能性すら見出せない完勝だった。しかもエース格の梅崎が体調不良で不在だったのだから、恐れ入る。まずは順調な立ち上がりと言うところか、



 さて、10月29日と言う日は、「横浜フリューゲルス消滅」と言う日本サッカー史上最悪と言っても過言ではない事態が正式発表された日だ。本件については、幾度となく過去から述べてきた。日本のサッカー界において、痛恨としか言いようのない人災だった。

 ところで、今シーズンは横浜FCが好調、ついにJ1昇格が現実的な状況になりつつある。横浜FCとフリューゲルスの関係については様々な見解があるけれど、私は横浜FCは「ある意味において明確にフリューゲルスと言うクラブの後継クラブ」と言わざるを得ないと考えている。その横浜FCが、あれから8年経った今、ついにJ1に上がろうとしているのだ。さらにそのチームの中核に、山口素弘が存在しているのだから、何と言うドラマなのだろうか。



 もしこのまま横浜FCがJ1に昇格すれば、来シーズンは最低2試合、公式戦でのマリノス対横浜FC戦が行われる事になる。考えてみれば、これはすごい事だ。両クラブの関係者は、過去は過去として全てを飲み込み、新たな港町のダービー戦としてその試合に臨む事だろう。それはそれでよいと思う。過去は取り返せないのだし、何よりも両クラブの現在の関係者のほとんどは、この人災の被害者であっても加害者ではないのだし。

 ただし、あのような悲劇が再発する事だけはなきように、当時を振り返り続ける事は非常に重要な事だと思っている。 そのような意味からは、興味を引かれるのは、J1昇格が決まった直後の山口素弘のコメントである。彼は、J1昇格決定が秒読みに入った今、どのような思いでプレイしているのだろうか。それはあまりに重いものだろうが、その山口の思いを記録に残す事は、今後の日本サッカーの歴史のためにも非常に重要な事だと思う。
posted by 武藤文雄 at 23:48| Comment(5) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月11日

デモに参加して

 このデモがテレビに取り上げられたのが、翌日早朝の民放局1回だけだった事が、テレビ局の「ニュース性の判断」によるものだと言う事を強く信じたがっている自分がいる。

 川淵氏ご自身は、「人の噂も75日」と言う方向で事を終えようとしているのだろう。しかし、あの文芸春秋への全く無意味な登場の仕方(「対談」である必要のない記事を無理やり「対談」にしている様子)を読むと、本人の焦りと言うか動揺が相当なものである事が理解できる。とにかく、このような無様な川淵氏を見るのがつらいのだ。



 ともあれデモの事。自分自身は準備に参加した訳でもないし、後方からトボトボと付いて行っただけだったが、「参加した」と言う事が自分にとっては重要だった。

  先日述べた15年前の振る舞いだが、あの活動が監督退任につながったのかどうかは、よくわからない。異論もあったのも認識している。けれども、当時の代表チームの結果、監督の態度や発言、その人事がなおざりにされた事を、許す事もできなかった。そして、そのために行動した事は間違っていなかったと確信している。

 今回のデモ、あるいは今後一連に重ねられるであろう活動は、周囲からの注目を含め、当時と比較すれば格段に大きな規模のもの。そして、今回のデモは、集団で整然と(まあ、お巡りさんたちに苦労をかけ、交通を妨害したりはしたが、法律で認められている行為なので、ご容赦いただくとして)「相当数の人間が『川淵会長に辞めて欲しい』と言う意思を持っている」と言う事を公に伝えられた事がまず重要なのだ。

 今後の川淵会長の態度、行動などがどうなるか次第で、一連の活動も変動する事になるだろうが、過日のデモは日本サッカー史にとって重要な1ページとして記録される事は間違いない。参加者の1人として、デモ開催に尽力した方々に改めて御礼申し上げたい。



 以下、15年前と比較してのアホな雑感。

 最大の発見は、この15年間で「ヤメロコール」のリズムが全く変わった事だ。「辞めていただきたい方」は、15年前も今回も4文字(4音節)。ヤメロと合わせて合計7文字(7音節)だから、当然同じリズムのコールになるのかなとだと思っていたのだが。

 15年前は、「タータタタ、タタタ」(これで7文字になる)と言うリズムでのコール、そして間をおかずそのコールを続けるやり方だった。今思えば、何かノンビリした牧歌的なコールである。中澤がドリブルで攻め上がる時のリズムとでも言っておこうか。実はこのユックリしたリズムには理由がある。日本サッカー狂会のノウハウと言おうか、少しでも静かな周りの人たちを引き込むために、コールしやすいゆっくりとしたリズムを採用していたのだ。

 ところが今回は、「タタタタタタタ」と7文字を連呼して、その後で「パッパッパパパ」と言う手拍子が入る。テンポはいいが、初心者にはやや入りづらいリズム。聞く方からすれば、格段にこちらの方が乗りやすいはず。田中達也のドリブルである。当たり前と言えばそれまでだが、このコールだけでも「応援慣れ」を感じる。さらに、最初は「カワブチヤメロ」だけだったのに、いつのまにか「Jリーグ舐めるな」と言うコールと、「カワブチヤメロ」が交互に連呼されるようになる。さらに、いつのまにか2種類の歌が始まる。まあ、デモに参加された方の多くは、筋金入りのJリーグチームサポータが多かったと言う事だろうが、ぶっつけ本番で集まった人々が即興的なコールなり歌を繰り広げるのだから大したものだ。

 ピッチ上で戦う選手たちのみならず、周辺を固めるサポータの実力もこの15年間で格段に向上したと言う事だ。もっとも、日本協会が15年前と変わっていない事(いや、悪くなっている事?)が、本質的な悩みなのだが。
posted by 武藤文雄 at 23:03| Comment(6) | TrackBack(1) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月07日

ヤメロコール

 まとまりのつかない文章で申し訳ないが、約15年前の思い出と、最近の混乱状態についての雑感を述べる。



 早いもので、あの日本代表暗黒時代から、15年もの月日が経過した。つらい時代だった。

 85年メキシコワールドカップ予選、87年ソウル五輪予選(当時はA代表が出場していた)、いずれに日本は最終予選まで進出し、後一歩のところで出場権を逃していた。とすれば、89年に行われるイタリアワールドカップ予選こそ、適切な強化を重ね初出場と行きたいところだった。

 そのタイミングで88年早々に就任した新監督は、実に個性的な采配を振るった。当時、欧州で最新フォーメーションと言われる3−5−2を代表に取り入れたのだ。そして、いわゆる両サイドには、足の速さで敵DFラインの裏を付く事を武器にしているFWが起用された。ところが、これらの選手は味方からの好スルーパスを受けて敵守備ラインの裏を付く事を得意とする選手たちなので、サイドプレイヤのもう2つの重要な仕事、1つは敵のサイド攻撃を止める、2つ目は中盤の組み立てに参加する、は全く経験のない状態だった。結果として、これらのサイドプレイヤたちは、ほとんど代表では活躍できなかった。足の速い選手とスピードのある選手は違うのだ。極端な言い方をすれば、当時の日本は3−3−2と言うフォーメーションで戦っていたようなものだった。これでは勝つのは難しい。

 変わったやり方をしても、勝てれば文句を言う気はなかった。ところが、日本はほとんど勝てなかった。いや、弱くなった。85、87年と連続して世界大会の最終予選に出場していたにも関わらず、89年のイタリアワールドカップ予選は1次予選で敗退した。直接のライバル北朝鮮には1勝1敗だったが、香港に2引き分けだったのが痛かった。ちなみに4年前は北朝鮮に1勝1分け、香港には2勝だったのだから、相対的にも成績は落ちている。

 ところが、その監督はワールドカップ予選に敗退していも、居座ったのである。敗戦の弁は支離滅裂であったが、「日本サッカーのレベルが低かったから」と言う趣旨を実に不遜な態度で述べていた。さらに、1次予選敗退直後に南米遠征を強行したのだ。これまでならば、ワールドカップ予選の2年後には五輪予選があった。けれども、次のバルセロナ五輪からはアンダー23の大会になる事が決まっていた。とすれば、この南米遠征は一体何を目標にしたものなのか。

 しかも、選手の質はそれなりに高いのだ。次々に有力な若手選手が登場していたのだ。井原を筆頭に、堀池、柱谷哲二、阪倉、長谷川健太、黒崎、武田、菊原、福田、反町、北澤、そしてカズも帰国した。いや、加藤久も木村和司もまだ健在だった。ラモスも帰化してくれた。少し前には、古河や読売がアジアチャンピオンズカップも制していた。どう見たって、アジアの他国と比較して、負け続ける戦力ではなかったのだ。

 もう我慢できなかった。試合の度に、選手の能力は高いにも関わらず、相も変わらぬ3−3−2を見せられ、あえなく負け、監督は不遜な発言を繰り返す。

 そう、もう我慢できなかったのだ。でも、私たちには口があった。だから、競技場でも、記者会見席に聞こえるような場所でも、本人を目の前にしても、代表に関係ない試合でも、「ヤメロコール」をしたのだ。私たちは、周囲から見ればずいぶん迷惑な存在だったかもしれない。



 15年前の経緯なんて、こんなものだ。

 ちなみにあの頃に、インタネットがあったらどうなっていたのだろうか、ちょっと興味深いな。



 もう1つ。署名運動について。私の友人が発起人になり代表監督退任要望の署名活動をしたのも、比較的知られた話だと思う。当時集まった署名は約千人分。今から思えば、ほんの僅かな人数か。日本協会に友人が持ち込んだ時、当時の専務理事の対応は「困惑そのもの」だった。したがってこの文章の記述は事実と異なっている。確かに専務理事は、友人に同行してきた一部のマスコミの方が「自分も署名者の1人だ」と発言した事に対しては不愉快な態度を見せたのは事実だが。それこそ、専務理事が友人を一喝でもしていたら、いくら注目の少ないサッカーでも格好のマスコミの好餌となった事だろうが。

 当時の協会としては、そのまま握りつぶすしか選択肢はなかったのだろう。したがって、我々の「ヤメロ」コールはそのまま継続する事になる。一方で協会関係者が、公の席で監督を守る発言をする事もほとんどなかった。



 その暗黒時代を完了させたのは、92年にオフト氏を招聘した当時の強化委員長の川淵三郎氏だったのだ。あのオフト氏初戦のキリンカップアルゼンチン戦の喜びといったら。

 だからこそ一層、今日の現状は悲しいものがある。ここ数日、自分なりにも色々な事を考えている。私は国立で「カワブチ、ヤメロ!」コールをするつもりだ。試合終了後、間に合えばデモにも参加するつもりだ。ただ、やはり、悲しいのだ。結局、私は川淵氏の事が好きなのだ。尊敬もしているし、感謝もしているのだ。しかし、週刊文春や日本経済新聞でのインタビューを読み、「何が問題となっているのか」も「自分の論理に説得性があるのか」も、わからなくなってしまっている川淵氏を見るのが本当につらい。川淵氏の過去の実績を傷つけないためにも、すぐに辞めてほしいのだ。

 まあ、すぐには辞めそうもないから、継続する事になるのだろうけれど。



 ついでに余談。

 ちょっと最近気になるのが、本件に関して、インタネット上で他者を排する意見が頻繁に見受けられる事。

 年端も言っていないだろう若者が、論理も通っていない文章で「デモ反対」を唱えたって構わないではないか。そのような発言に対して、複数のBLOGが反論しているが、人それぞれ多様な考え方があってよいし、たとて拙い意見でも、自由に述べる事ができるのが、インタネットのよさなのではないのだろうか。そして、読者それぞれが自己責任で「正しいと思う意見」を選ぶのが、インタネットの考え方なのではなかろうか。むしろ、賛否両論ある方がよほど健全なのではないだろうか。
posted by 武藤文雄 at 23:08| Comment(29) | TrackBack(4) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月01日

落合弘対K・H・ルムメニゲ

 先日、エルゴラッソの編集部から突然連絡があり、急遽小原稿をまとめる事になった。お題は残念ながら(?!)「カワブチ、ヤメロ」ではなくて、昨日(31日)に行われたレッズ−バイエルン戦の事前記事。埼玉県版にのみ載る原稿らしい。しかし、どうして私に「田中達也対カーン」、「闘莉王対ポドルスキ」の原稿が回ってくるのか、最初は不思議だった。レッズの記事ならお手の物の方がいくらでもいるだろうに。

 と、やりとりをしていたら、ようやく理解できた。この花相撲の原稿を求められていたのではなかった。この花相撲にはさらに前座があり(言ってみればショッキリみたいなものだな)、何とそれが両クラブのOB戦。バイエルンOB対三菱−浦和レッズOB、と言う凄い試合、その原稿を求められていたのだ。これなら、私の仕事だな、登場人物も、三菱は大杉山、森、藤口などの大物がズラリ。一方のバイエルンもブレーメ、ジョルジーニョ、マガトら本格派がズラリ。そう思うと、何があっても見に行きたい試合だったのだが(本業都合で某地方都市にこもりきりなため、観戦の可能性はゼロだったのです)。 



 元々昔からサッカー協会の中核を牛耳っていたのは、三菱、古河、日立のOBたちで、80年代我々野次馬は散々「丸の内組」と揶揄していた。しかしながらこれらの会社が、選手を引退した後に協会幹部として活動してきた「彼ら」の給料を支払ってくれていたのは事実。つまり、これらの会社のおかげで今日の日本サッカー界の発展があるとも言えるのだ。最近、コメント欄でもしばしば、協会幹部の出身企業を問題視するご意見をいただいている。それはそれで、もっともなのだが、これらの企業の「正の貢献」も忘れてはいけないと言う事。

 が、日本サッカーを支えてきた「古河閥」が迷走している今、もう1つの「三菱閥」にかかる期待は非常に大きいものがあるだけに、このバイエルンOBとの試合で、幾多の「三菱OB]が参集する事は意味があったりして。

 ん?待てよ。一番効果があるのは、「古河電工」への抗議行動だったりして(以下自粛)...



 話題を戻します。ともあれ、「落合弘対K・H・ルムメニゲ」の全文を公開します。

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 1975年1月、日本サッカー界は興奮に包まれていた。前年のW杯で優勝した西ドイツ代表の主将フランツ・ベッケンバウアやエースストライカのゲルト・ミュラーがプレイするバイエルンミュンヘン(しかも前年の欧州チャンピオンズカップも制覇していた)が来日し、日本代表チームと戦ったからだ。当時の日本サッカー界のメーンイベントは、この試合のように海外の有名選手が所属するクラブチームを招聘し、その相手を日本代表が務める試合だった。ベッケンバウアやミュラーのプレイを実体験できる事に、日本のサッカーファンたち(当時はサポータと言う言葉は定着しなかった)は興奮を禁じえなかったのだ。

 対する日本代表チームには、当時の三菱、そう今の浦和レッズの選手が多数含まれていた。メキシコ五輪のスーパースターの杉山隆一は前シーズンに引退して不在だったが、主将をGKの横山謙三が務め、ボランチで全軍を率いたのが森孝慈、守備ラインには大仁邦彌、落合弘、そして最前線には藤口光紀と言った面々がいた。これら当時の三菱の代表選手たちは、選手引退後も長きに渡り日本サッカー界の中枢を担っていた訳だ。言い換えれば、バイエルンが過去30年以上に渡り西ドイツ(最近ではドイツ)サッカー界をリードしてきたのと同様に、三菱−浦和レッズと言うサッカークラブは、日本サッカー界を長期にわたりリードしてきたのだ。

 そして、その両チームの歴史の深さを一層感じる事ができるのが、前座試合として行われる両チームのOB戦だ。中でも注目したいのはバイエルンのカール・ハインツ・ルムメニゲと、浦和の落合の再対決。31年前の試合、ルムメニゲは若手ストライカで、日本戦でも得点を決めている(この時点で後にバロンドールを獲得し「ミスターヨーロッパ」と称される選手になるとは想像もできなかった)。一方、落合は70年代後半、三菱でも日本代表でも、MFあるいはDFとして粘り強いマークと巧妙な攻撃参加で大活躍した、日本サッカー史で深く語り継がれるべき英雄。31年前サイドバックとして起用された落合は、ルムメニゲをよくマークしながら、大胆な攻撃参加から幾度か好機を演出していた。

 この2人のスターが実に31年振りに同じピッチで戦う。お2人の現在の体調は知る由も無いが、サッカーと言う偉大なスポーツの壮大な歴史を愉しみたい。
posted by 武藤文雄 at 22:24| Comment(3) | TrackBack(1) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月19日

ダイヤモンドサッカーの思い出

 先週は酷評した愛読書サッカーマガジンだが、今週号はとても嬉しい記事があった。「ダイヤモンドサッカー20年」と銘打った、当時のプロデューサの寺尾氏が振り返った番組開始及び継続の経緯。この記事は、「サッカー景」と言う連載として掲載されたもの。この「サッカー景」と言うのは、相当な好企画。カラーページ数ページを使って「サッカーの何か」を掘り下げる企画。野田鶴声社のホイッスルとか、遥か昔にジョージ・ベストの写真を持っていた女の子とか、物凄いとしか言い様のない記事が時々。そこまで凄くなくても、愛媛FCのJ2デビューなり、相馬のアントラーズ再訪なり、小島とザスパの4年間なり、見事な記事が並ぶ。たまに、ラモスを監督にしたヴェルディへの提灯記事で、失望させる事はあるものの、高く評価されるべき企画であろう。



 あ、もしこれを読んでいるサッカーマガジン関係の方がいらしたら、事務連絡です。この連載のネタが切れたら(国吉先生に限ってそんな事はないか)、連絡いただければ、いつでもお手伝いします。



 ともあれ、「ダイヤモンドサッカー20年」。寺尾氏の文章は、私にとっての美しい想い出の源を丁寧に解きほぐしてくれるものだった。



 中学2年、1974年だったと思う。月刊誌のサッカーマガジンとイレブンを購入し、穴が開くように熟読すると、巻末に必ず「今月のダイヤモンドサッカー」と言う欄がある。仙台の若きサッカーオタクは、それが羨ましくて仕方がない。当時の東京12チャンネル(現テレビ東京)は、有効な地方ネットワークを持っていなかったのだ。

「東京さ行けば、ダイヤモンドサッカーちゅうのを見られるんだべ」

と友人たちと語り合っていた。いいですか、当時の仙台では、「たった一つの世界に開かれた窓」すら開かれていなかったのだ。

 中学3年になった75年の、ある月曜日(だったと思う)。朝起きて新聞を見たら、東北放送(だったと思うのですが)の24時前後の新番組、「ダイヤモンドサッカー、西ドイツワールドカップ、ブラジル−ユーゴ」と書かれていた。そう、ついに仙台にもダイヤモンドサッカーが上陸したのだ。学校では、その話題で持ち切りだった、と言うか私が騒いでいただけだったような気もするが。

 放送前に、サッカーマガジンとイレブンを熟読し、展開を暗記して臨むのが毎週の常だった。今思っても、本当に集中して映像を見ていたと思う。だって、VTRなど、ない時代だったのだし。



 ところが、この貴重な愛好番組は、76年(高校1年)くらいに終わってしまった。再び「東京さ行けば...」状態に戻ってしまったのだ。

 77年、高校2年の時、我々は高校選手権予選でベスト8に進出した。宮城テレビ(日本テレビ系)の記者が取材しにきてくれた。ベスト8に残ったチーム同士で連絡を取り合い、全チームが宮城テレビに対し「ダイヤモンドサッカーをやって欲しい」と要求した。

 連携は成功する。今度は宮城テレビがダイヤモンドサッカーを放送してくれるようになったのだ。



 改めて想う。「限られた窓に熱狂できた時代」は間違いなく愉しいものだった。
posted by 武藤文雄 at 23:40| Comment(7) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月27日

夢のチーム

 昨日のエントリでも触れたが、21日土曜日の夜、NHKBSで凄い番組をやっていた。あの1970年ブラジルの特集である。

 

 話はいきなり飛ぶ。2003年の6月に長居で行われたアルゼンチン戦(ビエルサ氏が率いるアルゼンチンが、前半はアイマール、後半はリケルメのリードの下、コロッチーニが守備を固め、サネッティがサイドをえぐり、サビオラが点を取り、グタグタ日本がボロボロにされたあの試合)後の事だった。

 大阪遠征した私たちを歓待するために、在阪の友人が相当ヘビーなサッカー狂を多数集めてくれた大宴会。サッカー病に冒されたしようもない人々が集まった。

 このような宴会で自らのステータスを確立するために重要なのは、話題が振られた時に「いかに気の利いた切り返し」をするかだ。

 「アイマール+リケルメ+サビオラ<ディエゴ」と言う不等式の解釈について盛り上がっていた時に、突然ディエゴとペレの比較論に話題が飛んだ。すると急にある人が「武藤さんにとって、ペレのプレイで一番印象的だったのは何?」といきなり振って来た。慌ててクルクルと脳内HDDを回転させて、ヒラメいたのが、「ボールに触らずにマズルケビッチを抜いたフェイント」だった。すかさずそう返答すると、皆が「なるほど!」と納得してくれて、面目躍如。



 と言う事で、NHKBSの「1970年ブラジル特集」。先日のメキシコ五輪と同時間帯なのだが、定期的な番組なのだろうか。今後気をつけよう。

 で、いきなり冒頭に登場したのが、そのヒラメいた場面だった。いきなり興奮した。

 準決勝ウルグアイ戦、。ジェルソンがウルグアイ守備ラインの裏をついたラストパス、すり抜けてGKと1対1になるペレ、飛び出すウルグアイの名GKマズルケビッチ。そこで、ペレはマズルケビッチと正対して上半身を微妙に動かす、ペレの挙動に反応するマズルケビッチ。すると、後方からのボールはペレにも、ペレに反応したマズルケビッチにも触れずにそのまま裏に抜ける。ただし、ペレの動きを防ごうとしていたマズルケビッチは既に転倒していたが、仕掛けたペレには狙い通り、余裕綽々体勢を立て直し、裏に抜けたボールをコントロール。無人のゴールを狙ってシュートを打つが、僅かに枠を捉えられず。過去幾度も無く見てきた名場面だ。こうやって言葉で書くと訳がわからなくなるので、映像を堪能くださいとしか言いようのないプレイなのだが。

 さらに、次々に飛び出す美しいプレイの数々。右ウィングのジャイルジーニョの技巧と強さを組み合わせたドリブル、引き気味の左ウィングのリベリーノの切れ味鋭いフェイントと強烈なシュート。リベリーノが中盤に下がった事でできたスペースに、ジャイルジーニョは再三(反対サイドにも関わらず)顔を出し、敵の守備を混乱させる。トスタンの独特のキープ力による溜め、ジェルソンの技巧的な展開が、さらに変化を生む。ここまで変化をつけられてしまうと、いかにマンマークをつけていても、ペレはフリーになってしまう。そして、ゴール前でペレが再三見せてくれる信じがたい技巧。

 イタリアとの決勝の有名な4点目、クロドアウドとジャイルジーニョでカテナチオ守備網を左サイドに寄せてしまい、中央で受けたペレが「後ろの目」で、後方から進出してくる右サイドバックのカルロス・アルベルトにピタリと合わせる名場面を執拗に繰り返してくれたのも嬉しかった。

 唯一残念だったのは、「ペレのヘディング対バンクスのセービング」が含まれていなかった事。編集者はあの場面だけで別な番組を作ろうとしているのかもしれないので、そちらに期待か。

 最近「この70年以来ではないか」とも言われる程になった強力攻撃陣を持つブラジルは6月どのような舞を見せてくれるのだろうか。それにしても、日本がやれるんだなと。



 と興奮する父の横で、テレビに付き合ってくれた娘。

娘「ペレはどうして『神様』なの?サッカーの巧い人は皆神様と言われるの?」

父「いや、神の域に達したのは、ペレの他はディエゴくらい。後はクライフが『超人(鳥人)』、ベッケルバウアが『皇帝』、プラティニが『将軍』」

娘「どうして神様が2人いるの?」

父「う!...アルゼンチンとブラジルは神様が違うのだ」

娘「そう言えばお父さん、『ドイツではロナウジーニョがうんと偉くなる』って言ってたじゃない、そうなるとロナウジーニョは何になるの?」

父「ううっ!...サル山のボス」

 これじゃあ、あんまりですよね。誰か素敵な呼び名を考えて上げなければ。
posted by 武藤文雄 at 22:56| Comment(4) | TrackBack(1) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月04日

天皇杯決勝5選

 実は年末12月30日発売のエルゴラッソに、「過去の天皇杯決勝で印象的な5試合を選んで、その内容を振り返る」と言う文章を書かせていただいた(元日決勝戦当日に配布された号外にも掲載されたはず)。ありがたい企画で、自分自身愉しむ事ができた。

 以下、全文を掲載するが、さすがに5試合をどう選ぶかは迷った。70年代の日本代表を支えた藤島と言う選手を若いファンの方々に紹介するのは、私の責務だな(笑)。釜本引退とMFに下がり輝き始めた木村和司の対比は欠かせない。最初に国立が満員になった日産−読売は、その年が景気よかっただけに入れよう。書きたくはないが、フリューゲルス消滅は書かなければならない。と、4試合まではすぐに決めた。

 残り1試合をどうするか、編集担当の方とも色々打ち合わせをした。第53回の杉山の引退試合、第54回のJSL幻のチーム永大を下す釜本の右45度、第56回永井とドイツに行く前の絶頂の奥寺の輝き、第57回猛威を振るった絶頂時のフジタ、第62回オフト氏の日本での初仕事となるヤマハの初制覇、第64回の戸塚のビューティフルゴール、第69回ヤマハ柳下の痛恨のミス(と第83回の監督としての復讐戦)、第75回のピクシー、平野、小倉の芸術的な攻撃ライン、第82回の朴智星、黒部、松井が見せた若きサンガ(とその後の崩壊)。など、色々迷った。で、結局今年はワールドカップイヤーなので、4年前の思い出をしっかり書くのがバランスがよいかなと思った次第。



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名勝負。ここにあり。

――天皇杯珠玉の5選



■第61回大会 1981(昭和56)年度

1982年1月1日 国立競技場

日本鋼管 20 読売クラブ



藤島信雄の笑顔



 読売は日本リーグ1部昇格3年目、与那城ジョージ、加藤久と攻守の大黒柱を揃え、初タイトルを期待されていた。一方、鋼管は、前シーズンに2部落ちしたものの、名将千田監督の下に立て直しに成功、藤島信雄と田中孝司による組織的な守備力を軸に圧倒的強さで1部復帰を決めていた。

 読売が攻勢を取るも、鋼管は守備を固め逆に前半終了間際にPKから先制(このPKは鋼管の決定機を都並敏史が手で防いだもの)。後半も鋼管は、読売の中央突破に拘泥する攻撃をいなし、終盤に絵に描いたような逆襲速攻から川上晃が決めて2点差とし、勝負を決めた。

 藤島信雄は、信じ難いほどの精神力と運動量で70年代の日本代表を支えた名選手。鋼管と言う弱小チームにいたため、タイトルには縁がなかった。この天皇杯決勝当時は30歳を過ぎ代表からも外れていたものの、その能力はこの日も輝いていた。天皇杯を高々と掲げる藤島の笑顔は、長きにわたる天皇杯の歴史の中でも屈指の美しさだった。



■第63回大会 1983(昭和58)年度

1984年1月1日 国立競技場

日産自動車 20 ヤンマー



二つの歴史の分岐点



 他チームに先駆け実質的なプロに近い体制を確立し、木村和司を筆頭とするスターを多数抱える日産。70年代に釜本邦茂を軸に栄華を誇ったヤンマー。日産が優勢なものの、釜本監督が選手兼任の本人を投入する終盤までヤンマーが粘れるかが勝負どころ、と予想された。

 天皇杯直前にMFにコンバートされた木村が、清水秀彦のサポートを受け、日産猛攻の軸となる。ヤンマー守備陣は健闘するも、後半柱谷幸一と金田喜稔が得点を重ね勝負あり。ヤンマーが不運だったのは、負傷者の影響で選手釜本をセンターフォワードでなく右ウィングに起用しなければならなかったこと。釜本は中盤の組み立てなど様々な仕事に忙殺され、決定機はつかめなかった。

 大会終了後、釜本は引退を発表し、この試合が最後の公式戦となった。憮然とした釜本と初優勝に歓喜する木村の対照的な表情。この一戦はスーパースターの新旧交代を象徴すると共に、プロフェッショナリズム導入と言う時代の変革を予兆するものとなった。





■第71回大会 1991(平成3)年度

1992年1月1日 国立競技場 観衆約60,000人

日産自動車41読売サッカークラブ





初めての満員国立、最高の年への期待



 人気、実力ともにナンバー1を争う両チームの顔合わせ、Jリーグに向ける前景気も好影響を与えたのか、国内チーム同士の試合では史上初めて満員の国立競技場が実現した。

 前半は両軍とも井原正巳、加藤久を軸に守備を固め無得点。

しかし、後半試合は一気に動く。日産がエバートンの粘り強いシュートで先制した直後に、読売の名ボランチ、ペリクレスが高田主審への異議で退場。それでも、読売は交代とポジションチェンジを駆使して反撃、後半終了間際に北澤豪とラモスの組み立てから、武田修宏が決め追いつく。延長戦では、無理攻めでバランスを崩した読売は、カズをサイドバックに使うなど最後まで抵抗するが、木村和司に強烈なシュートを決められ力尽きる。その後、日産は新人の山田隆裕、エースのレナトが加点し、大差の優勝。

 新年早々、最高の雰囲気の中の好試合、よい年になる予感がした。予感は的中する、この年の10月、我が代表は初めてアジア制覇に成功するのだから。



■第78回大会 1998(平成10)年度

1999年1月1日 国立競技場 観衆50,304人

横浜フリューゲルス 21 清水エスパルス



日本サッカー史上最悪の人災



 天皇杯直前の98年10月、横浜フリューゲルスの親会社が「他クラブへ出資し、フリューゲルスを消滅させる。Jリーグも承認済み」と発表した。横浜Fの現場やサポーターの存続努力にもかかわらず、消滅決定は覆らなかった。その逆境下、横浜Fは天皇杯を戦い抜き、決勝進出を果たした。

 薩川了洋の出場停止の影響か、前半の横浜Fの出来は散々で清水に翻弄される。GK楢崎正剛の負傷直後、プレーを切らずにボールを奪われ、そこから失点するという無様なプレーで先制を許す。

しかし、失点以降は我慢を重ね、山口素弘の好技を起点に同点に追いつく。そして、後半、セサル・サンパイオと永井秀樹の巧妙な組み立てから、吉田孝行が才気あふれる決勝ゴール。悪い時間帯を我慢し最後に勝負を決める強いチームならではの見事なサッカーだった。

 天皇杯制覇により、消滅の悲劇は一層日本中のサッカー人の心に残った。「このような悲劇は二度と起こしてはならない」と強烈な教訓を残し、横浜フリューゲルスは消えていった。



■第81回大会 2001(平成13)年度

2002年1月1日 国立競技場 観衆約46,728人

清水エスパルス 32 セレッソ大阪



6カ月後への息吹



 森島寛晃とアレックス(三都主アレサンドロ)を軸に、両チームが美しい攻め合いを演じた決勝戦だった。

 アレックスの先制点は、ドリブル突破後に静止し周囲を見回しチップキックで決めた芸術的なもの。さらに、単独突破から見事なセンタリングをバロンに合わせ、延長Vゴールを演出した。

 しかし、勝者のアレックス以上に印象的だったのは、敗者の森島だった。豊富な活動量でボールを拾うや、敵陣に向かう高速ドリブルと鋭く正確なパスで常に猛攻の起点となる。C大阪の2点はいずれも森島が絡んでのもの。このシーズンの森島は、前シーズンの過労から本調子に遠く、C大阪のJ2陥落を阻止できなかった。しかし、この天皇杯で復調した森島を見て、勝負所で最も頼りになるのはこの男だと、誰もが思ったのではないか。

 森島は我々の期待を裏切らない。半年後のW杯日韓大会・チュニジア戦、森島は見事な先制点を決め、1億2千万国民に最高の歓喜を提供することになる。
posted by 武藤文雄 at 23:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月31日

2005年10大ニュース

 1年間ありがとうございました。毎年の恒例ですが、10大ニュースをまとめました。



1.堅実なワールドカップ出場とブラジル戦の大健闘

 代表チームは堅実そのもののサッカーで、悠々とワールドカップ出場を決めた。元々、枠が広い状態だった上に、北朝鮮が早々に脱落、バーレーンもエースのA・フバイルが負傷離脱して日本に脅威を与えられなかった。勝負を決した敵地バーレーン戦で直前に小野が離脱、中立地北朝鮮戦ではさらに中田、中村が出場停止、と言う状況でも、敵を子ども扱いして勝つのだから、どうしようもない戦闘能力差があったと言う事。

 出場権獲得した直後のコンフェデ、ギリシャに完勝してユーラシアチャンピオンに(笑)。そしてブラジルとの素晴らしい攻め合い。

 不満を言うとキリが無いけど、まあいい時代になったと言う事だろうな。



2.Jリーグ暴力事件

 レイソル、FC東京のホームゲームで、それぞれ切り口の異なる暴力事件が起こった。悲しく恐ろしい事だ。2度とあってはいけない。日本協会、Jリーグ当局、各クラブ、いかに再発を押さえ込むか、重い課題だ。



3.ウズベク−バーレーン戦の誤審

 吉田主審を中心とする日本審判団が、世界サッカー史に残る痛恨の判定ミス。二重の意味でショックな事件。まず、日本審判団がビッグゲームで世界に迷惑をかけてしまった事そのもの、日本サッカー界への信用問題にも関わる問題だ。そして、試合終了後時の結論は覆らないと言う原則を、FIFAが自ら否定してしまった事。

 この不運なミスジャッジが、将来のサッカーの禍根にならない事を望む。

 

4.新トヨタカップとカズの冒険

 FIFA肝入りの世界クラブ選手権が、新トヨタカップとして日本開催。次年度までの日本開催は決まっているらしい。それにしても、法外な入場料と、閑散としたスタンド。来シーズン以降どのような運営になるかは不鮮明。

 ともあれ、サンパウロの見事な優勝、欧州の金満クラブとしては久々に組織力の見事さを見せてくれた感があるリバプールの充実、アジア代表のアル・イテハドの活躍など愉しめた大会だった。

 カズの奮闘については賛否両論あろうが、客寄せパンダと自覚しながらも、見事なプレイを見せてくれた事だけは確か。



5.ヴァンフォーレのJ1昇格

 あの予算規模でJ1昇格が可能である事が示された。そして、このクラブの40年もの歴史。いや、恐れ入りました。



6.ヴェルディの歓喜と絶望

 天皇杯制覇で久々にタイトルを獲得したヴェルディ。前途有為な若手タレントを多く抱え、さらにワシントンと言う大型補強にも成功、J優勝候補とも思われた。ところが、リーグ中盤戦での守備の崩壊、その後の監督交代などがあったが、苦戦は継続。ついに27年振りの2部落ちに。

 これだけの名門が2部落ちするのも、日本サッカーの厚みと考えるべきか。



7.ガンバのリーグ制覇

 未曾有の大混戦となったJ1。最後の最後に抜け出したのはガンバ。アラウージョ、フェンルナンジーニョ、大黒、遠藤、二川らが奔放に活躍する攻撃的サッカー。シーズン後期半ばあたりの破壊力はすさまじいものだった。

 西野監督については、1度ちゃんと整理したいと思いますが...



8.中田浩二移籍に見る世界移籍ルールとの相違

 中田浩二の移籍で明らかになった移籍金問題。この移籍騒動そのものは、アントラーズサイドが中田浩二の代理人に騙された事によるものと思われるが、このような事態は将来も再発するだろう。世界サッカー界の移籍ルールは、契約期間終了するや、移籍金がゼロになる。Jクラブが、(海外志向のある)トップスターと、どのように折り合いをつけていくか。非常に難しい課題である。



9.どうしようもない過密日程

 アジアチャンピオンズリーグで勝てない最大要因も過密日程。さらにHOT6なる、最も消耗が激しく、一方集客も可能な、夏に平日開催が多数になる矛盾。解決する手段は1つだけ。J1のチーム数を減らす事だ。J1を16チームにすれば、J2は15チーム。これで2回戦のリーグ+ナビスコで健全な試合数が可能になるはず。本件については、近く詳説したい。



10.トリニータのユース育成

 GK西川に続いて、ユースの大黒柱福元(あの北朝鮮戦の福元の存在感をどう語ったらよいのか)を育成したトリニータユース。これは驚異だ。必ずしも長い歴史を持たない、地方のJクラブから、ここまで継続してトップスター候補が出てきた事は、日本サッカーにおいて、非常に明るい話題ではないか。



 その他、挙げたかったものとしては下記があります。

 オシムジェフのナビスコ初戴冠(オシム爺さんには、もっと日本で成果を出して欲しいから、今回は10大ニュースに入れなかった)。貴重な代表の欧州遠征よりもJの花相撲(Jの公式戦ではないよ)を重視する愚策。ワールドユースチームのアジア予選2次トーナメントから通算5引き分け1敗と言う成績での2次トーナメント進出。



 とにもかくにも、ワールドカップ出場を早々に決め、リーグは終盤までもつれにもつれて愉しめた年。いい年だったと思います。来年は、ドイツで未曾有の歓喜を味わえることを期待したいと思います。
posted by 武藤文雄 at 23:41| Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月25日

メキシコ五輪映像

 朝から夕刻まで少年団の大会の帯同で、昼間は天皇杯は全くフォローできず。帰宅後、焼き鳥じゃなかった七面鳥を食べながら、NHKBSの録画中継を愉しんでいた。クリスマスイブだしね。ロスタイムのマルキーニョスの決勝ゴールなど眺めていたら、突然メキシコ五輪の回顧番組が始まった。以前も放映されたものなのかどうかは知らぬが、なかなか面白かった。



 メキシコ五輪の回顧となると、いつもの事だが英雄大老の自慢話を愉しむ事になる。すると、東京五輪にしか出場していない川淵現会長は、アルゼンチン戦のダイビングヘッドのみで完全な前座扱いなのがお気の毒。

 長沼元会長((当時の監督)の相変わらず何を語っているのかはよくわからないが心に染み渡るコメント、岡野前会長(当時のコーチ)の相変わらず微に入り細に入る具体的なコメント、それぞれは見るたびに幸せな思いになる。そして釜本御大のこれ以上ない自慢話。(と思っていたら、その後見たスーパーサッカーにカズが登場し、全く異なる美しい自慢話が...)

 目新しいのは、先日来日されたクラマー氏の最近のインタビュー。締めの場面で力強く言い切られた「Yamato Damasi」は本当に素敵な響きだった。



 とは言え、今回感心したのは当時の映像の鮮明さ。

 例えば、例の予選の3−3の日韓戦。過去、幾度か映像を見たことがあるが、いずれも不鮮明なものだった。ところが今日の映像はとても鮮明、おそらく画像処理技術の賜物だろうが、ちょっとビックリした。二アサイドを打ち抜く釜本の3点目のグラウンダのトラップからシュートに至る動作の美しさ。ところが、しばしば話題になる3−3の同点後の韓国のバーに当たるシュートは静止写真のみで動画なしだったのが残念。おそらく、あの場面の動画は現存していないのだろう(実際、「五輪予選の度に各テレビ局が八方手を尽くしてあの映像を探したが、見つからない」と言う話をしばしば聞いた事がある)。このような記録の散逸は本当に悲しい。

 メキシコの準々決勝フランス戦の釜本の先制ゴールも素晴らしい。敵DFに絡まれながら、しなやかで力強いドリブルで振り切り強烈な一撃。陳腐な言い方でいつもの夢物語だが、このお方が今の代表にいたら...頼むぜ、久保よ、達也よ、大黒よ。
posted by 武藤文雄 at 00:58| Comment(5) | TrackBack(1) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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